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2007年10月

2007年10月18日 (木)

今夜のめし(その75)

Dscn1672 今日は「きつねうどん」です。「きつね」は味付けに失敗し、チョイ濃い目で、どちらかといえば、いなり寿司の揚げの味になってしまいました。(笑)油揚げは5枚で88円なので、十分に安いし、ウドン玉は3玉で111円なので2玉使っても100円未満で作れます。ダシ汁は、濃縮500CCで薄めて使うので10杯分で200円と言う程度なので、合計でも、120円~150円といったところです。多分インスタントのカップ麺よりは、量も味も良いと思います。一番高いのは薬味のネギのような気がします。揚げの味付けにも慣れてきたので、次は、いなり寿司にでも挑戦しましょうかね。

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2007年10月15日 (月)

今夜のめし(その74)

Dscn1668 見た目は良くないけど、「きつねそば」です。いちおう、「きつね」は賞味期限切れぎりぎりの油揚げを昨日煮込んで作ったものです。ネギは白ネギだけど、本当なら万能ネギにしたいところだけど、白ネギの方が安いです。いいかげん(良い加減?)に作ったのに結構おいしいですよ。スーパーの閉店間際のお惣菜コーナーで半額の天ぷらを買うのも結構やってます。麺は、暖めるだけのチルドタイプを使います。少なくともカップ麺よりは美味しいです。
ドンブリはラーメン用を使ってます。本当は、和麺用のドンブリも欲しいのですが、いろいろ食器を買っても置く場所が無いのです。

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2007年10月 7日 (日)

トイレの公共性

トイレの個室は名前の通りに個の空間だが、公共性がある。だから、「ケチなことを言うな」と言われそうだが書かずにはいられない。

トイレ、特に女子トイレからカラン、カラン、カラン、.......カランといった具合に数分に渡って延々と度々音がすることがある。男子トイレの個室からも似たような状況はあるので、男女の区別はそれほど無いのかもしれない。
しかし他人様の密室での行いなので「止めろ」などと言う訳にはいかないのだが、あまりにも限度を超えていると感じる。その音の続いた時間から想像するに、おそらく巻紙の半分以上は使ってしまったのではないかと思える勢いだ。温水便座が設備されているにもかかわらず、そのように紙を要する状況が私には全く理解できないのだが、なぜそんなに紙を使うのだろうか。
「紙は1回あたり1メートル」などと張り紙をすれば効果があるだろうか。たぶん、そんなことをしても全く効果は無いのだろう。自分の金ではなく会社の金、学校の金、役所の金、....で買った紙、つまり公共物なので、使う側としては全く損にはならないのだが、あまりにも無神経で自己中心的と感じる。皆の使う公(おおやけ)のものを自分一人が大量に使うことに罪悪感あるいは恥を感じないのか。おそらく紙が公共物との意識が全く無いのではないか。父母あるいは祖父、祖母の時代はもっと紙を大切に使っていたし、紙は大事に使えと教育を受けたように思うし、ましてや公共物を使うときは、無駄にしないように努力すると教えてもらったはすだが、私とは世代が違うらしく、何を恥と感じるかすらも違うようだ。

社会に出る前に、こういった公共の物を大切にすることを学問そのものよりもキッチリ教えるべきだと思う。現代の家庭・学校教育は知識、受験技術を教えるだけで、日本人の恥を知る心を教えていないのではないか。

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2007年10月 6日 (土)

複雑な事象の説明

仕事で、複雑な事象を顧客に説明せねばならない場合が多いのだが、いつも悩ましい。つまり複雑なシーケンスで問題が発生することを、その事象の上っ面だけしか知らない人へ合理的に、達意性を保ち、誤解無く、短い文章で、論理的に、矛盾無く、ストレートに、....伝える必要があるのだ。そのために七転八倒し、時には1日を費やすのだ。そのためには、文章上の工夫をする。その工夫とは、「枝葉の部分の省略」であり、「骨格を示す」、「図示する」、「ウソにならない程度に味付けする」....ということだ。これらは、理解してもらいたいと言う前向きな努力なのだが、時としてこの努力を曲解し、「ウソとついている」のではないかと疑われる場合があるのだ。これは大変困ったもので、実に不快に感じることがある。

考えてみると、このような不快さ、悩みは新聞記事を書く記者と全く同じではないかと気がついた。新聞記者は取材で得た素材を記事にするときに枝葉の多くを捨てて、しかも客観的に、かつ判り易く、誤解が無いように、真実を伝えるべく記事を書くのだ。しかしながら時として「真実を伝えていないのではないか」あるいは「誤った報道ではないか」などといった見方と、現実の記事のとり得る長さの狭間で悩むのだ。その上で「何が真実か」を常に考えて記事にする新聞記者はエライと思う。

美文を書くことは文豪の仕事だが、同じ文章であっても、文豪と新聞記者は全く質が違う。記者の仕事は、「複雑な事象を達意性を保ちつつ、正しく読者に伝える」と言うことではないか。その意味で、それが出来ている新聞記者には私はあこがれる。別な言い方をすれば、その対比は芸術としての文章と、実用の道具としての文章と言うことだろう。味、臭い、匂い、触感、人の心の動き、風景、....を文章で表現することは大変困難だと思うが、これを実現することが文豪の仕事であり、それらよりも正しさや、達意性、を重んじ、文章を情報伝達の道具として活用するのが新聞記者の仕事なのだろう。

私はもっと、うまく達意性の高い文章を、もっと素早く書けるようになりたいと常々願っているのだが、依然として七転八倒の連続だ。

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